子どもの頃、確か小学生だったか、母親が段ボールに何やら菓子をたくさん詰め込んでいました。「お母さん、何してるのー?」って聞いたら、「この前〇〇おばちゃんにお世話になったやろ。お礼にお菓子を送るのよ。」と母は言いました。
ふ~んって思ったけど、なぜかこの時の記憶が強く脳に刻まれました。何気ない日常の風景だけど、この時僕は「そうか、贈り物は誰かのお世話をしないと貰えないのか。逆に言えば、誰かの役に立つことができなかったら贈り物は貰えないんだな。うちにも時々誰かから段ボールが届くけど、あれはうちが誰かに感謝されるようなことをしたってことか。」と思いました。
つまりギブアンドテイク。それが普通ですね。お世話になってない人にはお菓子は送らない。むしろ、何の関係性もない人から突然お菓子が送られてきたら怪訝に思いますよね。何か裏があるんじゃないかと疑ってしまう。
この世に無償の愛なんてものはほとんどなく、友達も彼女もすべて共通の利害があるから関係が続いているだけ。そう思っています。友情だの愛情だの言うけど、すべての人間関係の根底には利害関係がある。利害というのは金銭という意味だけじゃないです。大人になると金銭面の重要性は上がると思うけど。
子どもの頃にこういう考えに至り、その考えは大人になった今も変わっていません。それどころか強くなる一方です。「なぜこの人は貴重な時間を割いて僕を飲みに誘うのか?」、「なぜこの女性は僕と付き合おうと思ったのか?」って常に考えてしまう。何にメリットを感じてるのか?って。もっと素直になりたいって思うけど、どうしても客観的分析的な目線で考えてしまいがちです。癖ですね。直りません。
この前、研修プロジェクトで一緒だった同い年の人に突然ランチに誘われました。部署は違うから一緒に仕事はしません。研修が終わってからは、オフィスですれ違ったら会釈するくらいの関係。ライン等の連絡先も交換していない。突然ランチのお誘いとは何事か?って思いました。
「彼が僕をランチに誘うメリットは何かあるだろうか?」っていう、いつもの思考回路が作動します。昼休みって結構大事な時間じゃないですか。それを捧げる理由は何か。僕には断る権利があったけど、理由が気になったので承諾しました。
1000円くらいのお寿司を食べながら談笑していました。お昼休みは終わりに近づいていました。ファイナンスか会計か仕事関係の相談でもあるのかと勝手に思っていたけど、もしかして特に用件はなくただランチに誘っただけなのか?と一瞬思いました。
が、やはり違いました。 食事が終わって一服している時に「そう言えば、Hiroさんはそろそろ結婚とか考えてる? 妻の友人が相手を探してるらしくて、良かったら会ってくれない?」と言われました。
あ、そういうことか。良かった。ちゃんと用件があって安心しました。もし何も用事がないのにただランチを誘われただけだったら、ちょっと不思議というか、言い方は悪いけど気持ち悪さを感じていたでしょう。そんな仲じゃないし。大してお世話になるようなことをしていない相手から贈り物が届く感じです。ちなみに、この縁談は丁重にお断りしました。
僕がランチに誘われたのは、紹介に値する相手だと思われていたから。あるいは単に同い年くらいで独身だからか。兎にも角にも、彼にメリットを与えれるものを持っていた。
仕事で後輩が僕の指示に誠実に従ってくれるのは、仕事だから当然というのもあるけど、「Hiroさんの指示に従っておけば大体正しいはず」と思ってくれているからでしょう。その期待を壊さないためにも、仕事で誤った判断をしないように気を付けないとって思います。
わざわざブックマーク登録して私のブログを読んでくれるのは、時間を割いて読むだけの価値があると読者さんが思ってくれているから。その期待を裏切らないためにも、趣味の延長とは言え、読み手にメリットを与える記事を書かないといけないと思ってしまいます。気楽に書いているようで、実はそうでもないかも。ま、書きたいこと好きに書いてますけどねw。最近は投資と関係ない雑談記事ばっか書いちゃうし。あ、これも雑談です。
相手にメリットを与えられる存在でい続けなくてはならない。
僕はこの意識が常に頭から離れません。
お金という金融資本にしろ、人間関係という社会資本にしろ、誰かの助けを借りないとこの社会では生きていけません。「資本」とは広い意味での信用であり、信用を得るには他者利益に貢献しなくてはなりません。そういう意味では他者利益を考えるのは当然かもしれないけど、それがあまりに行き過ぎると自分を見失ってしまう気がして怖くなる時があります。「資本」主義病だな・・。
多少ずれているかもしませんが、我が家の文化にはお年玉をもらったら、
お年玉袋に金額を記載し、袋のみを提出するルールがありました。(お年玉は貯金)
すべての家がそのようなルールだったと思っておりましたが、ある時それは一般的ではないと気づき、
「なぜ価格を書かなければならないのか?」と親に訊くと「お返しのときのため」と言われました。
私は
「もらった額でお返し額が決まるのは変ではないか。そもそも1円でも1万円でもありがたいものではないか。」
的なことを親に言ったら、怒られました。
その怒られ方は覚えていないですが、子供ながらに筋が通っていないと我慢した記憶があります。
社会に染まった30代の今では親の言い分もわかりますが、
今でもお祭りの時などによくある「~会社 金xxx円」のような寄付額を張り出す文化は非常に嫌いです。
書いているうちに話をどうまとめたらいいかわからなくなりましたが、
結局は人の善意をお金で計る文化は今でも好きになれません。
PS.大学の授業の話で覚えているのですが南米の部族間ルールで
「贈り物を送られたら、更に価値を乗せた贈り物を返す」というものがあり、
最終的には両部族が潰れたと言った話があるそうです。
そのルールは初めて聞きました。珍しいと思います。
お年玉に対してお返しをするもんなんですね。
もしかしたら私が知らないだけで、両親はお返しをしてたのかも。
お祭りなどで寄付額を晒すのは、私もいつも違和感を覚えます。
寄付した人は自分の名前が載らないと納得しないかもしれませんが。村社会的ですね。
うちの父親は大してお金がないにもかかわらず、見栄を張りたいのか毎年町内会の祭事で寄付をしていました。
私には疑問でしたが、そういう繋がりで地域の人間関係が維持されている面もあるんだろうとは思います。
その点、都会の一人暮らしはドライで気楽です。