ひろゆきがYouTubeで「古文、漢文なんて大人になって使う時はほとんどないわけだし、あんなの義務教育にすべきではないよね。」って言ってました。
うーん、なるほど、確かに(笑)。わたし学生時代、古典めちゃ嫌いでしたね。全く楽しいと思わなかったです。特に漢文。
勉強は表面的な内容でその有用性を判断されるべきではありません。大人になっても三角関数や二次方程式の知識は使わないけど、数学の勉強を通して身に着ける論理的思考力、抽象化力は社会に出て稼げるようになるうえで絶対に必要な能力です。
じゃあ、古文漢文を勉強することで得られるスキル、能力って何かあるのだろうか?
確かに知識的には古典なんて学んでも、その知識を活用する機会はほぼないわけだけど、もっと本質的なところ、普段気が付かないところで、役立っていることもあるのではないか。
と考えたとき、実は古文漢文の勉強を通して、私たちはとても重要な現代社会を生き抜くスキルを得ているのかもしれないと思いました。
それは、意味がないと内心思いつつもルールだからと嫌々でも仕方なくやり抜く精神です。古文漢文は楽しくないし勉強する意味ないと思いつつも、受験で必要だから頑張りましたよね。そのマインドです。
これから社会はますますリベラル化していくと思います。特に先進国は。
社会に技術、知識が蓄積され続けた結果、新しい付加価値を生み出すのはとてもつもなく困難になっています。
いまアメリカでユニコーンがたくさん生まれているホットな業界はテクノロジーや生命科学ですが、そういう分野の第一線で活躍できるのは超高学歴の天才だけです。一部の秀才が世の中を一変させるような技術、ビジネスを生み出します。
そのコストを負担できる先進国の消費者の生活はますます便利になるでしょう。
上位0.1%が新たな富のほとんどを生み出して、その他99.9%はハラリ先生が言うところの「無用者階級」に成り下がる。もちろん、私も後者に属すると自覚しています。経理の仕事は社会に必要ではあるけど、別に新しい価値を生み出しているわけではありません。
給料を得て所得税を払っているわけだし、私みたいな普通のサラリーパーソンもいくらかGDPに貢献しているのは事実ですが、それは「付加価値」とは言えないかなと感じています。
過去の遺産を維持するだけで国民がそこそこ豊かに生活できるようになると、社会がリベラル化するのは必然です。もう少し言うと、政治的になるということ。
政治的とはつまり富を創造するのではなく、富をいかに配分するか、に重きが置かれるということです。
企業は新たな付加価値を生み出そうと努力するものの、結局は既存の資産が生み出す富をいかにステークホルダーに配分するかを決定するだけに終始しがちになっていくと思います。
仕事が「仕事」ではなくなっていく。利益を生んでいる組織に属して、一応決められた業務をこなしているから給料をもらうことができる。それは仕事を通じて社会に価値を生んでいるように見えて、実は会社が持つ資産が生み出す富の配分を受けているだけ。
こういう側面が強くなっている気がします。それは悪いことではなく豊かさの証です。
こういう社会になると、意味ある仕事って少なくなると思うんです。就業規則に定められた8時間をそれらしく過ごすために、会社から与えられた仕事をする。上司から言われた業務をこなす。
「こんな仕事やって何か意味あるんすか??」的なことが多々あるけど、給料もらっている以上はやるしかないです。それは心の中で言うにとどめるべき。実際にそんな発言してしまったら社畜失格です。
本質とか社会的意味とか、そんなことどうでもいんです。意味がなくても指示された業務をきちんと真面目にやって、んで給料もらってさっさと帰ればいいんですよ。
戦後、日本が焼け野原から復興するフェーズは、国民全員の仕事に付加価値があったと思います。それを皆が感じていたからこそ、馬車馬のように働いて日本は世界3位の経済大国にまでなったのかなと思います。
現代はと言えば、本当の意味で付加価値を生んでいると言えるような仕事をできる人は、そんなに多くないのではないでしょうか。朝から晩まで線路を引いて、鉄道産業を支える仕事をしている人間はもう現代にはいません。港でのコンテナの荷揚げはクレーンがやってくれます。昔の高給肉体労働はすべて機械がやってくれます。
仕事がなくても、仕事っぽいことをやって給料をもらわないと食っていけません。ベーシックインカムはまだまだ浸透しそうにないですから。
意味がないと思いつつも、決められたことだからと割り切って淡々とこなすスキル、というかマインドが求められる時代です。古文、漢文を義務教育で学ぶ意義は大きいですよ、きっと。
毎日記事の更新楽しみにしています。漢文学ぶのにはこのような意味があるのですね 深くて納得いたしました。
私の思い付きですので!
どちらかと言うと世の中リベラル方向だよね、ってことがメッセージの肝でした。
駄文失礼しました。
趣旨としては『意味のない仕事に耐えられるように意味のない古文漢文に耐える』ということかと思いますが、自分としてはひろゆきが提案するような方向の『古文の代わりにドイツ語会話入門・現代ドイツの生活と文化入門にして、漢文の代わりに中国語会話入門・現代中国の生活と文化入門にして、現代グローバル社会への適応可能性を育む』みたいな感じの方が有益かなあと思いますね。
自分の実家や知人友人を眺めていても『テレビやネットで(しょうもない)国内ニュースばかりを見ていて、世の中の動きを全然見ていないし、そのことの自覚もない』ように感じます。日経新聞で海外の動向も眺めていればマシな方で、私のようにnewspicks、WSJ、ブルームバーグ、quartzなどを眺めている人は私の周りにはごく僅かです。
なんだかんだでみなさん『日本に住んでいて日本語を話す日本人同士の生活や社会にもっぱら関心があって、その外のことには関心がない』のだと感じますね。単一民族の島国の国民性が示されていて素敵だなあと感じます。
英語は勉強しておけばよかったといつも思いますね。
仕事で使うのもそうですが、投資経済などの良質なコンテンツの大半が英文ですから。
リソースに限界があるなかで、古典の学習にあれだけの時間を使うのが良いのかは議論が分かれるところですね。
日本のメディアの嫌いなところは、あまりに悲観的なところです。
コロナ関連もそうですけど。
別に海外が正しいと言いたいわけでもないのですが。
何かと自虐的な報道が多いですが、日本っていいところをたくさんあると思うんですけどね。
まだまだ経済大国ですし。
Hiroさんに向けてでは断じてありませんがこんな意見が出てくるっていうこと自体がすごく恥ずかしいことだなと個人的には思いました。
日本人なのに「俳句ってどう書くの?」とか平気で言う時代が来るんでしょうか。
人として、大人として、日本人としての一般常識だと僕は思いますけどね。
今の我々って意味のあることしかやっちゃいけないんですかね?
不快な記事で申し訳ございませんでした。
おっしゃる通り文化、教養は大切と思います。
こんばんは
この記事は、視点が変わっていて面白かったです。
自分自身は大学から理系…バイオテクノロジー系…を学び大学院まで行きましたが、高校時代は純粋な文系で学び、古文や漢文、日本史、世界史とか真面目に勉強しました。
まぁ、理系に進学した自分が古文、漢文が全く意味無いかと問われたら、自分には意味あったと思います。
古文、漢文より外国語の意見もあるけど…自分にとっての古文、漢文は外国語や異文化学習と共通点が多くて面白かったです
現代語と異なる単語や文法を覚えて文章を解読する、また文章の時代背景を理解して深く鑑賞する……英語や英文学を読解するなと古文、漢文を学ぶ姿勢は共通してると思います。
結局、目の前の学習内容に興味や関心を自発的に持たない限り、学校で習う教科に意味なんてないと思います。
試験や受験で勉強するのは大切だけど、勉強する姿勢で数学も古文、漢文も同じで…面白く感じなければ理系も文系も関係無いかなぁ
自分にとって高校の地学や天文学みたいな科目は、興味なかったので辛かったけど…教わる事に無意味だと思わないです
大学に進学して、専門科目の中で…卒業したら絶対に関わらないと思ってた授業も……卒業後20年経ってから、意外にも先端技術分野を理解するのに役立ったりします。
ちゃんと学ぶ姿勢で学んだ教科を、卒業後にら、どんな風に生かすかは個人次第かなぁ。
大人や社会で、学校での授業科目を取捨選択しても結局は子供の意欲次第。
外資系に、働く立場から英語学習に関しては……日本語できちんとしたコミュニケーションを取れない人は英語学んでも社会で役立たないと思います。
母国語で、きちんと論理説明できなくて、外国語なら話しが通じる人は見たこと無いかなぁ。
国際コミュニケーションも、目の前の状況を楽しめて…しっかりと自分の言葉で説明できるかが出発点。
相手に無関心や興味無ければ、英語や外国文化を学んでも…身につかないかなぁと思ってます。
古文、漢文を楽しめたら…異文化コミュニケーションの達人になれる要素は有ると思いますよ
結局、表面的な知識レベルで学生時代に学んだことが、直接大人になって生きることは少ない面がありますね。
それは当然で、今の世の中は専業化が進んでいるので、どうしてもそうなってしまうと思います。
おっしゃる通り、だからって勉強が無意味なんてことはないですね。
多分、幼少期に受けた教育はすべて今の私たちの生きる糧になっているのですが、それに気が付くことが少ないだけなのでしょう。
コロナ禍で思ったことは、科学的に物事を見る視点を養うことって大切だなってことです。
どうも。御記事、大変有益だと思いました。ありがとうございます。
記事の趣旨とは違うかもしれませんが、古文はもうやめたほうがいいと思いますね、さすがに。正直、平安時代の書き方読み方を習って、何の意味があるのかわかりません。今の日本語と違うのですから、国語の上達にもならない。というか逆に混乱するだけ。
どうせなら「江戸時代の書き方読み方(まだ時代も近いし、資料も多い)」「日本の方言」「アイヌ語」を勉強したほうが、まだいいと思います。「(勉強に)意味があるのか無いのか」というか、なぜ平安時代の読み方書き方に限定して勉強をするのか、と思いますね。
まあ深堀りすれば、古典の存在には「百人一首」や「天皇制」なども影響していると思いますが、他に選択すべき勉強科目はあっていいと思います。平安時代の書き方読み方だけではなく、生徒に選択肢をもっと増やすべきですね。
興味のあるなしは人それぞれだから、選択制くらいがちょうどよいかもしれませんね。
ひろゆきが言う通り。
日本の歴史、文化ですし、完全に教育から排除するのは違うかなという気もしますし。
個人的には、言語はなぜ生まれたのか、どういう過程でどう世界に広まっていったのか、その中での日本語の位置づけとは、というあたりを勉強をしたかったです。
そういうのを知っておくと、昔の言葉にももっと興味を持てたかもなと。
横から失礼します
近頃、YouTubeで、ゆる言語学ラジオ…と言うチャンネルに出会って楽しんでます。
毎回、30分近い動画だから時間を見つけるのが難点ですが…ゆるく言語の話題の解説が面白いです
日本語文法の未解決問題…象は鼻が長い→この文章の主語を特定する論争……毎日使う日本語にも未解決な論争があるのが新鮮です。
まぁ、実用的意味と学問価値や教育教科の価値は切り離さないといけないとは思います。
言語学に興味有れば面白いかもです。
↓
https://youtube.com/channel/UCmpkIzF3xFzhPez7gXOyhVg
ITのプログラム言語は、言語の条件を満たしてるかとか…雑学で面白いネタが多いと思います
こんにちは。
YouTubeも色んなチャンネルが増えて目移りします。
私はYabochanさんのような知的なチャンネルではなく、専らゲーム動画などどうでもいいものばかり見ていますw
お金を払わずに未知の分野を知れるいい時代ですよね。
いつもご紹介ありがとうございます。
主体的な問題解決能力や創造力、リテラシーを養うSTEM教育が世界的な潮流のようですが、教育というものが子供たちの生きる力を養うためにあるとすると、刻一刻と変化していく時代の流れに応じて、本来は教育の内容や優先順位は常に見直されなければならないのでは?と個人的には思いますね。
ありがとうございます。
私は所謂STEM教育はなかなか万人向けではない気もしていて、難しいところだと感じています。
かと言って、フランスみたいにはじめっからエリートを選抜する教育にすることが、日本に合うかも怪しいです。
社会の変化に合わせて柔軟に自分で考える力が大切というのは、その通りですね。
「正解」は時代によって変わりますね。
便利だけど生きづらい時代だなと思います。
私も日本の教育システムは努力し続ける鍛錬の意味合いもあるなと感じてたので共感持てました。また最近は無駄な努力だったと思っていた事は、のちの自分の引き出しの数になると少し考え改めてるところです。偶に繋がるんです、無駄と無駄が(笑)
だんだんと人間の労働に価値がなくなっていくと、意味のある勉強という定義が曖昧になってしまいますね。
どういう教育があるべきなのか答えが出ないのも仕方ないことかなと思います。
私は古典は不要派ですが、全体的に見て今の詰め込みが多い教育は幼少期には必要なことだと思っています。
古臭い考えかもしれませんが、小さい頃はiPadとか使わずに紙にたくさん文字を書いた方がよいとも思います。
どう考えても、と言いますか、考えるも何も、と言いますか、古文や漢文が実体験で役に立つ機会が滅多にないのは普通に生きていれば否定することのできない事実だと思います。それは間違いありません。仰る通り。
古典に意義を見出すのも面白さを感じるのも何も感じないのも結局ひとそれぞれと言いますか、ポジショントークにしかなりませんね。笑
こちらのコメント欄を見ていて強く思います。
指導要領には科目を教える目的が明示されているのでしょうか。読んだことないのでわかりませんが。
学校自体がそもそも多面的な空間です。学問に努めつつ、コミュニティの中で人間関係や社会規範を学びます。
他にも細かく挙げれば学校というのはもっと目的に溢れているのでしょうかね。そのどこから切り取って除くかどうかで何色にも見えてしまうのだと思います。意義などと言うものは。
やりたくもない科目まで必死にできる精神のあるものが理不尽だらけの社会で良いポジションに就けるのでしょうし、シンプルに古典やその他科目に好奇心をくすぐられ、魅せられ、惚れ、一生関わりたい趣味や職を見つける人もいるでしょうから、人生にきっかけを与えてくれることも素晴らしい意義だと思いますし。
なんてことを偉そうに綴るのなんて私だけでみなさまもこんなことくらいわかってらっしゃるのでしょうが。
人間万事ポジショントークですね。揶揄する気はありません。そこのぶつかり合いこそ人間味ですから。
だから最後に私も好き勝手言うと、私はひろさんに「はげどう」です。
学校で古典なんかやる意味はありません。教わらなくとも好きな人は手に取れる環境があります。
図書室なんてものがまずあるんですから金もかかりませんし。それだけで十分きっかけは与えてます。
文化とか知りたきゃ各々勝手にやりゃ良いんですよ。
”ドがつくほど直接的に”役に立つことをまず優先すべきだと私は思いますし、
そうでないことをやらされるのはただの苦行だな、と思います。鍛えられます。
必ずしもみんながバリバリキャリアを追求しなくても、それなりに豊かに暮らせるようになった日本。
生き方、価値観も多様化するなかで、義務教育として全国民に同じ教育を施すのは発想として限界がきている面がありますかね。
それでも国力の基礎は教育ですし、日本の義務教育はこれからも絶対に必要だと思っています。
教育内容が最大公約数的なものになってしまうのは仕方なく、そういう制約がある中で日本の教育内容は特段劣っているとは感じてません。
大人になって、幼少期に受けた教育(学校、親ともに)のありがたさを感じます。
すべてがポジショントークというは同感です。
そういうものですよね。
ポジショントークとはつまり自分の意見ということで、それに正しいとか誤りとかはないと思っています。
あるのは共感か反発かです。
反発を恐れてポジショントークを控えるのもつまらないし、共感を得るために自分を偽った「ポジショントーク」を語るのも嫌です。