お世話になった人に感謝の気持ちを持つというのは当然の感情です。

ですが、世界中すべての人に等しく感謝の気持ちを抱くのは無理です。顔を知らない面識のない人が圧倒的多数なわけですから。

「世界中誰だって 微笑みあえば仲良しさ みんな輪になり手をつなごう 小さな世界」という歌詞でお馴染みの”It’s a small world”は素敵な曲ですが、世界中すべての人を友達と思うのはちょっと無理があります。

全く知らない人に突然「今月どうしても生活費が足りなくて家賃を滞納してしまいそうなんです。10万円貸してくれませんか?」と言われても、普通はNOですよね。その人に何の感情もないし、そもそも信用できるかわかりません。

仲良くしている友人や彼女から何かの事情で10万円貸してくれと頼まれたら、お金を貸すこともあるでしょう。友人間のお金の貸し借りはあまりやらない方がいいとは思いますが。

自分が今までお世話になった人に対して感謝の気持ちを持つこと、またその感謝の気持ちを行動で示すことは普通にあることです。

生きてきた中で最もお世話になった人、それは先ずは両親です。自分を産んでくれたこと、健康に育ててくれたこと、教育を与えてくれたこと、自由に遊ばせてくれたこと、生まれて最初の20年間これらを与えてくれたから今の自分があります。

今はもう両親と一緒に住んではなく年に1,2回帰省した時に会うだけです。今はもはや両親の世話がなくとも自分は生きていけます。ありがたいことに。でも、それは両親が自分をここまで育ててくれたからです。

だから、いやだからっていうわけでもないかな、まあ単純に親子だからとも言えますが、両親には感謝しています。とても。

 

一方で、両親よりもさらに感謝したいと思っている対象があります。それが社会です。自分は社会に生かされていると、社会のお陰で元気に過ごせていると思います。特に社会に出て一人暮らしを始めてからよくこう思うようになりました。

「お金って一体何だろうか?」ってたまに考えます。

社会人になって今はもうそれなりに金融資産を持っています。1000万円以上のお金を持っています。日常の生活を送る上で金銭的に困ることはなくなりました。

日常生活で不便を感じないのはお金があるから・・?

そうでしょうか。
お金があるから不自由なく、快適に生活できているのでしょうか?
それもそうだけど、何か違うな~と思うのです。

お金なんてタダの紙切れです。あるいはただの銀行口座の残高情報です。財布に1万円札を大量に突っ込んでいれば中洲では楽しく遊べるでしょう。でも、その財布を無人島に持って行っても何の意味もありません。

中洲では意味のあるお金。無人島では意味のないお金。
中洲と無人島は何が違うのか。

それは社会の有無です。

お金は社会があって初めて価値が生まれます。使う場所があってこそのお金です。中洲には美味しい水炊きや焼き鳥のお店がたくさんあります。綺麗なお姉さんが待っているお店もたくさんあります。そういう事業を営んでいる人がいる場所に行くことで、初めて紙幣に価値が宿ります。

何のお店もない無人島に札束持って行っても何の意味もありません。金持ちお笑いタレントのアズマックスがテレビで、1万円札で額の汗を拭くというネタをやっている時があります。このネタ馬鹿にできません。無人島に1万円札を持っていったら、本当に額の汗を拭くくらいしか1万円札の役割はありませんから。

社会があるからお金には価値があります。社会が存在しない場所にお金を持って行っても、何の価値もありません。

私は経理として働き、株式を保有して、またブログを運営することでお金を頂いています。自分で努力して働いてお金を稼いでいる自負はあります。仕事は周りの協力・サポートがあってのことですが、自分で働いて食い扶持を得ています。

お金は自分で稼いでいます。
親には頼っていません。

そんな私は自分の力のみで、自分一人の力で生きているのかと聞かれれば、それは絶対にNOです。一人では生きていけません。自分の力で稼いでいて、誰からも金銭支援を受けてはいないけど、それでも自分の力だけで生きているとは一切思っていません。

社会のおかげで生活できています。

社会です。
社会様様。

経理として働いて給料を貰っているわけですが、私が社会で果たしている役割なんてちっぽけなもんです。社会のほんの小さな歯車に過ぎません。とある上場メーカーの決算書の一部を作成しているだけです。あと収益性分析とかやっています。そういった小さな役割でも、社会の誰かから必要とされているから仕事としての需要があるわけですが。

その小さな役割を社会で果たす中で対価として頂くお給料という名のマネー。そのマネーを払って、色んな商品やサービスを購入することで生活しています。

自分が生活する上で必要な食料や日用雑貨、住居、衣服、通信環境、電化製品、あらゆるものを社会が私に提供してくれます。もちろん無料ではないですが、有料無料かは問題ではありません。社会が私の生活を快適にしてくれています。

人生最初の20年は両親にお世話になる日々。
そして、その後の人生60年~は社会にお世話になる日々。

時間だけで見れば、圧倒的に社会にお世話になる時間の方が長いです。

 

感謝するって綺麗な言葉ですけど、ぶっちゃけ思うだけなら簡単です。「あなたには感謝してます」って言うだけなら簡単です。別にお金を払えばそれでOKとは思いませんが、大人の世界では感謝の気持ちが本当にあるなら金銭で示すことも必要だと思います。言葉だけでなく行動で示すということです。

両親に対する感謝の気持ちを行動で示すにはどうするのか。レストランに連れていくとか、旅行に連れていくとか、時計をプレゼントするとか、まあ色々と具体的な行動を考えることはできます。

では、社会に対する感謝の気持ちを行動で示すにはどうすればいいのか?

社会とは、世間とは曖昧な概念的な存在でしかないので困ったことになります。町で通りすがりのすべての人に図書券でも配るのか。。まさか、そんなアホなことしません。

なんか結構前だったかもしれませんが、日本各地で「伊達直人」という名義でランドセルを贈呈するタイガーマスク運動なる寄付行為がありましたよね。あれは、解釈によっては社会への感謝の気持ちを示した行動と捉えることもできるかもしれません。

まああれだけニュースになることですから、同じ類のことをやるのは現実的ではありません。

社会に対する感謝の気持ちを行動で示すということ・・、それは結局社会で働き続けるということなのかなって思います。

社会から恩恵を受けることで、平和な日本という国で豊かに生活できています。それに対する感謝の念。その気持ちを忘れないためには、自分が社会に何らかの価値を提供し続けることが一番なのかなと思うんです。

だから、私は健康である限りは社会で働き続けたいです。

それはサラリーマンとして永遠に働き続けたいという意味ではありません。そもそもサラリーマンには定年という障壁があります。65歳で定年とは早過ぎると思いますが、日本は年長者ほど高給ですから定年制度はやむを得ない面もあります。

ブログで情報提供するというのは、シニアになってからも続けられる働き方かなと思います。広告収入を得ること、アフィリエイト収入を得ること、これは立派な仕事です。最近はYouTubeで経営塾みたいなのを配信している人もいます。現代はネットを活用して社会にアプローチすることが容易です。自分で仕事を作ることが比較的簡単にできます。

そして仕事で稼いだ収入の一部をきちんと国家に納税する。税金を払うのは普通は嫌なもんですが、税金を払うことで自分が社会の一員であることを実感できる面もあります。

仕事をして社会に働きかける。きちんと納税して国家財政に貢献する。これを出来る限り続けていきたいです。社会と繋がっていたいです。なぜなら、自分が社会に散々お世話になっているからです。

仮に死の床が自宅ではなく病院だとしたら、それは死ぬ寸前まで社会のお世話になっているということです。

もはや感情の問題だと分かっていますが、社会との繋がりを死ぬまで維持したいです。若い時にドカッと稼ぎまくって早期引退する人生も魅力的に思えますが、どちらかと言うと細く長く働き続けたいかな~と思います。あ、でも嫌な雇われ仕事をやり続けたいという意味じゃないです。コンビニのバイトをやりたいかと言われればNOです。

自分が社会に還元できることを見つけて、小規模でもいいのでそれでマネタイズできればOKかなって思います。年齢を重ねれば重ねるほど、社会に発信できる情報の引出しは多くなるはずですし。

社会との繋がりを維持し続けることが、社会に生かされている自分ができる唯一の恩返しなのかなと思います。

社会への恩返しとかカッコつけたこと言っておいて、結局自分のエゴなのかもしれません。まあエゴですかね。社会と繋がっていないときっと不安なんだろうな、僕は。不安を解消したいが為に働き続けることの口実として、社会への恩返しとか言ってるだけだな。書いている内に、そんな気がしてきました。