浅草キッド面白かった

妻にまた韓国ドラマブームが訪れたようで、久しぶりにネットフリックスを契約しました。私も何か観ようかなと思いネットフリックスオリジナルで話題の『浅草キッド』をチョイス。

とても面白かったです。

ビートたけしの癖を絶妙に表現した柳楽優弥の演技が素晴らしい。また、何と言っても大泉洋演じる深見千三郎の義理人情の厚い人柄、師弟愛に泣かされました。

深見千三郎はビートたけしの師匠にあたる人です。「俺は結果として売れたが、芸事という点ではついに師匠を超えることはできなかった。」とタケシさんは後に語っています。

昭和40年代当時、世間の注目はテレビに移り変わりつつありました。舞台でのコントは流行らなくなり、漫才が人気を集めていました。

しかし、深見は漫才なんて芸とは言えないと全否定。芸を極めることこそが自分の生き方だと主張します。テレビへの出演も興味を示さず。

そうは言っても社会の流れには抗い難く、深見が運営するフランス座の経営は火の車状態に。フランス座ではコントも披露されていましたが、少ない客の一番の目的はストリップショーを見ることでした。コント自体の需要はほぼ無かった、そういう風に見て取れました。

最終的に深見は知人の紹介の町工場で働きに出ることに。妻の麻里も家計を支えるべく芸者として料亭で働くも過労で倒れます。

深見は妻の麻里が亡くなってから酒量が一気に増えたと聞きます。そして、最期は酩酊するなかタバコの不始末で火災を起こし59歳で亡くなります。

社会から承認されることが幸福に繋がる人が大半ではないか

自分探し、やりたいこと探し。

人生観が多様化する中でこういう言葉が出てきがちですが、個人的には詭弁かなと思います。本当の自分なんて探しても見つかることはなく、選んだ道で努力していく中で自然と見つかるものではないでしょうか。

何が幸せかは人それぞれと言えばそれまでですが、ある程度の一般解は存在していると思います。それは周囲からの承認です。

社会、地域、会社、友人、家族。これらのコミュニティの中で自分の居場所を見つけないと生きづらいものです。居場所というのは、つまり他人の役に立てる場ということです。

自分のやりたいこと、こだわり、人生哲学、美学とかは一旦横に置いておいて、社会のニーズに自分をadjustした方が結果として幸せを感じれることが多いのではないかと思います。

社会に認められればお金を稼げますし。

別にカネカネカネと言いたいわけではないのですが、自分のこだわりを貫いて稼げないよりは、柔軟に世間のニーズに自分を合わせてEarn Moneyできた方が幸福度は高いだろうと思うだけです。

その幸福はお金から来るところも当然ありますが、社会の中で自分が一定の役割を担えているという健全な自己有能感から来るところも大きいです。

お金を稼げず、家族もいなくなれば孤独感が募り、社会から見捨てられたように感じ、最終的に酒やタバコに溺れるというのは古来あるあるです。緩やかな自殺と表現されることもあります。

大人になればどういう選択をするかは自己責任ですし、社会の需要を無視して自分のやりたいことをやり続けるのも、本人が満足なら構わないわけで、周りがとやかく言うことではないです。

それを承知の上で私がよく感じることを言うと、自分なりのこだわりや美学と見せかけておいて、実際は行動できない自分を正当化する言い訳になっていることが多いのでは、ということです。

たとえば、近年は私が書いているようなブログは流行らず、世間の需要はYouTubeなどの動画コンテンツに移行しています。現に私もウェブでは文章よりも動画を見ることが年々増えています。娯楽、勉強ともに。

この時流を見てYouTubeを始める人もいれば、変わらず文章で情報発信する人もいます。

文章を書き続ける人は「動画は情報吸収の時間効率が悪い。文章の方が短時間でメッセージを伝えられる。」とよく言います。

それは確かに事実ではあるのですが、そうは言っても現実問題として人々の可処分時間は文章から動画に移っています。アルファベットのYouTube広告の成長率を見れば一目瞭然です。

物書きが好きだからそれを続けるのは全然構わないわけですが、実際は一から機材をそろえ、動画作成編集の手順を覚えることが億劫だから、文章にこだわっている振りをしているだけかもしれません。

仮に動画を好きになれなくても、読まれない文章を書くよりも、大勢の人の目に触れる動画を作成した方が最終的には幸福度は高まることが多いのではないでしょうか。