GreeeeN「遥か」
あの空 流れる雲 思い出す あの頃の僕は
人の痛みに気付かず 情けない弱さを隠していた気付けば いつも誰かに支えられ ここまで歩いた
だから今度は自分が 誰かを支えられるように
何も考えずにただ遊びまくっていた子どもの頃。
学校の授業以外はサッカーとテレビゲームしかしていなかった。
何も考えていなかったとは言え、親のおかげで自分は勉強できている遊べているくらいの認識は当然持っていました。もちろん恥ずかしいので、面と向かって母ちゃんに「いつもありがとう」なんて絶対に言わなかったですが。でも、心の中ではすごく感謝してました。
あと一緒に遊んでくれる友達も大事な存在でした。
そこまでは、親や友達に感謝するまでは子どもでもできる。
実際に「ありがとう」と言うかどうかは別にして。
でも、子どもの頃は全く考えが及ばなかったことがあります。
それは「社会」というものがいかに自分のことを陰で支えてくれていたのかということです。
親や友達のおかげで今の自分があるとは思えるけど、社会のおかげで自分はそれなりに楽しく生活できているということには考えが至らなかったです。そこまでは無理でした。
大人になって社会に出て働いてお給料をもらい始めて、お金とは何かとか真剣に考え始めてようやく気付きました。自分は社会に生かされているということを。
学校で勉強させてもらえる環境、家に帰ったら友達と一緒に遊びまくったゲーム機器、夕方になったら好きなだけサッカーさせてもらえる自由な時間、すべて社会が与えてくれたものだったんだって今は理解しています。
人はおぎゃーと生まれてから最初の20年間、社会から与えられてばかりです。
テイク&テイク&テイクな期間です。
気付けば いつも誰かに支えられ ここまで歩いた
↑
ホントその通りだと思います。
こういう歌詞書ける人凄いわ、尊敬します。
だから、大人になればそのバランスを取るため(借りを返すため?)、働いて社会にお返ししないといけないんですね。社会人になれば働き詰めになる人も多いかもしれませんが、それは仕方ないことかもしれません。
(まあ、AIがそれを解決してくれるかもしれませんが。)
だから今度は自分が 誰かを支えられるように
↑
クレクレな人生は許されないってことですね。
社会からテイク&テイク&テイクな日々を過ごしたんだから、今度は社会にギブ&ギブ&ギブな日々を過ごすことが求められるんでしょう。
もちろん、大人になってからも社会からテイクし続けます。
それには社会へギブして報いる必要があります。
人生全体での”ギブ&テイク”の折り合いをどうつけるかが、判断の難しいところなのかなって最近思います。